信濃路梓川 [人生観]
紅葉が美しい!過ぎし日のワンショット。孫ではありませんよ!
今日から10月ですね。秋が深まると人肌にお燗をした、日本酒が美味いと感じる季節でもあります。「♪肴は炙った~イカでいい~」と、叙情的な演歌を聴きながら飲むのもおつなものです。
昭和56年の11月に三重県の長島温泉へ行ったところ、一泊したホテルの大広間での夕食時に、ステージでは森昌子のショーをやっていました。あまり興味がない歌手でしたが『信濃路梓川』という曲を聴いて、詞とメロディに心を奪われたのです。以来、森昌子の曲を聴くようになり、『彼岸花』、『愛傷歌』、函館を歌った『立待岬』などが入ったベスト版CDも持っています。友人達は私のCD棚を見て、「えっ!ウソでしょう!」と云うのです。(爆)
昔とてもお世話になった先輩が、数年前に故郷の信州へ帰りました。帰京したら真っ先に訪ねようと思います。
夏『信濃路梓川』
冬『越冬ツバメ』
アルコールの遺伝子 [人生観]
日本人特有の体質で、一般的に遺伝によってお酒を飲める体質と、飲めない体質の人に分かれていますが、それはアセトアルデヒドの分解酵素の型で決まり、日本人の約四割の人が、アルコールに弱い体質だといわれています。お酒を受け付けない体質の人が飲みすぎては危険ですので、自分の体質を把握しておく事も重要でしょうね。
私とお酒の付き合いは学生時代のディスコ、コンパ。社会人になってからはスナック通いをしていましたので、昔からお酒を普通に飲める体質でした。おかげで社交性も身に付いて良い社会勉強になったと思っていますが、最近の若者は職場での飲み会などを敬遠するそうですね。お酒を飲むことはひとつのコミュニケーション・ツールにもなるので、飲む場面を通して世の中が広がる事も多いですね。
私が父に連れられて初めて飲みに行ったのは、大学3年の1975年で、父の行きつけだった赤坂のスナックでした。カラオケが流行りだした頃でしたが、当時は8トラックのカセットの時代で、ステージがあって譜面台に歌詞の本が置かれていて、「コモエスタ赤坂」や「銀座の恋の物語」などのムード歌謡が主流でした。
私の元妻は知り合った当初アルコールを全く飲めなくて、ワインやコニャック蒸しなどの料理を食べても酔っていました。私と付き合うようになって酒量を上げた友人は沢山いましたが、彼女も飲めるようになりたい一心から、当時発売されたばかりのペンギンのイラストが可愛い、サントリーのミニ缶ビールで練習して陰で杯を重ねていました。その後はウイスキーの水割りを飲めるようになり、離婚後は風の噂によると六本木界隈を飲み歩いていると聞いて、切なさを感じた頃もありました。アルコールに弱い方は、私の毒牙に掛からないようにお気を付けくださいね。(爆)
私がディスコへ通っていたのは大学2年の1974年頃迄でしたが、1979年に同窓会の二次会で行ったのが確か、新宿のディスコ「カルチェラタン」で、そのときかかっていた曲が西ドイツ出身の女性3人組、「アラベスク」の『フライデイ・ナイト』のB面、『貴方を待って』でした。
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前書きが長くなりましたが、今日のメイン・テーマです。
アルコールと人種差「モンゴロイド(黄色人種)」
はるか昔、人類が黒人、白人、黄色人種という三大人種に分かれた後、理由は不明ですが、モンゴロイドの中に突然変異的に、アセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH2)の活性を亡くしてしまった人が出現しました。現在でも、モンゴロイドでは失活型を含めるとALDH2不活性型は約半数で見られ、モンゴロイドの特徴となっています。
アセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH2)が欠損型か正常型かはアルコール処理能力を見分けるエタノール・パッチテストによって解かります。
山河 [人生観]
私は少年時代から興味を注いできた事に対する、想い出を懐古する形でブログを書いていますが、その想い出に対するストーリー性などに、共感を持って読んでくださる方が多く、中には私との共通点と、記事の感想などを長文にしたメールを頂く事もあります。同じ目線で時代を感じていて、その少年時代に抱いた価値観を共有出来ている事をとても嬉しく思います。これも現代文明の利器である、インターネットの良い部分ですね。
一昨年の6月にネットで知り合った方は、3年前に癌を患ってあと数ヶ月の命と医師から宣告されていたのですが、そのとき、奥様の『あと10年間は生きさせてみせる』という強い一念と、心血を注ぐような看護から、一年後には東京の大学に入学したお嬢さんの念願の入学式に、新幹線で4時間かけて出席できるまでに回復していました。
「60歳の誕生日」
この方の心の琴線に触れて、このお話を読ませて頂いた時は涙があふれて止まりませんでした。その後もお元気に仕事をされていますが、ブログの更新が途絶えると「忙しいですが元気でやっています」と、メールをくださっています。彼は勤務医ですが、医師という仕事はたいへんハード・ワークなので、くれぐれも無理をなさらないように、毎日、定刻で帰宅されますようにと願っております。
彼が奥様との出逢いを書かれたブログに、小椋佳の『白い一日』が想い出の曲としてあります。私も小椋佳の大ファンで、昨年の10月に千葉の習志野文化ホールで行われたコンサート、「歌談の会」へ行きました。数ある曲の中から、「山河」と「めまい」をUPします。
「顧みて恥じることない 足跡を山に 残したろうか
ふと想う 悔いひとつなく悦びの山を築けたろうか
永遠の 水面の光 増す夢を 河に浮かべたろうか
愛する人の瞳に 俺の山河は美しいかと」
この曲は、男の人生を唄われているように思います。
大原麗子さんへ~哀悼の意を込めて [人生観]
昨夜、女優の大原麗子さんの訃報を聞いて、驚きと共にとてもショックです。1976年頃に放送されていた、渋谷公園通りのシーンがよく出ていたドラマや、サントリーのCMシリーズでの印象が強く残っています。死因が不明だそうですが、謹んでご冥福をお祈りします。
私の飲み友達にS21年生まれの元モデルがいて、大原麗子さんと交友があった人なので、彼女達の青春時代のエピソードをよく聞いていました。'60年代初めに芸能界の登竜門といわれた「六本木野獣会」は、和田浩二、峰岸徹、加賀まり子、後にスパイダースで活躍した井上順、ジャガーズの宮ユキオ等‥、'60年代のスターが多いのですが、大原麗子さんもその一人でした。ハイ・ソサエティの子息令嬢が多かった彼らは、その後アイビールックで銀座へ出没して、後に大ブームになった「みゆき族」、「アイビー族」の先駆けでした。大原麗子さんはみゆき族のアイドル的存在でもあって、みゆき族の女王と呼ばれていた事は、アイビー・リーガースの伝説にもなっています。
元、電通マンの渡瀬恒彦とはお似合いのカップルでしたが、結婚生活が5年と、破局が早かったですね。当時、私の義兄の従兄弟がテレビ局に勤めていて、その従兄弟の仲人が渡瀬、大原夫妻でした。
スパイダースがデビューする前に浅草のジャズ喫茶に出演していた頃、大原麗子さんがよく行っていて、ある日怖いお兄さん達にからまれたときに、友人の堺正章が裏口から逃がしてくれたというエピソードを思い出しました。
中学1年の頃に、大好きだった曲です。1967年の『日本航空世界一周航路開設記念』のキャンペーンで、ザ・サベージの「夜空に夢を」と共に、「太陽の翼」がリリースされて、共作のアルバムも出ました。
つばめのように [人生観]
8年前の7月の今頃でした、都内のホテルで行うイベント会場で設営のビジュアルの最終チェックをしていたところ、傍らの台車に立てて積まれていた硝子のショーケースの、蓋の部分が数十枚倒れてきたものを咄嗟的に支えてしまい、支えきれずに身を引いたのですが転倒して左足首と踝が粉砕骨折し、重みで踵が脱臼して足首から飛び出すという大怪我をしました。救急車がよばれて近くの病院を回りましたが、大怪我の為受け入れ態勢が出来ていないという事で、やっと搬送されたのが整形外科学会で著名な医師がいる病院でした。
ドクターからは倒れてきたときにどうして逃げなかったのですか?。患部の位置が少しずれていたら、膝がつぶれていたら、一生松葉杖か車椅子の生活になっていたでしょうと云われ。腹部、胸部に倒れていたら死に至っていたかも知れませんと云われました。咄嗟的と言えども無謀でした。3ヶ月間の入院で2回手術をして、現在も取って有りますが抜丁手術後に渡されたチタン製の金具の数も多くて、こんなに使っていたのかと驚きました。完治するまでには2年かかりましたが、九死に一生を得たのだと思っています。
人生には予期せぬ障害が起こる事があります。事故のときも目の前に大きな壁を感じて、お先真っ暗な状態でしたが、入院中に思ったのは平凡でも健康な生活を送れる事への感謝と、それまでは親しくしていなかった人達が、猛暑の中を頻繁に見舞いに来てくれて、励ましてくださった事への感謝、人の痛みや心の機微を感じ取る、心の大切さを改めて思ったのです。若い頃は唯我独尊的でしたが、私の人生観、感性が180度変わったように思います。
現在は足首の前後の可動域に障害が残ったため、正座ができなくて、正座をしても5分がやっとなので、正座をしなければならない場所へは遠慮しています。療養中に正座のリハビリを兼ねて、20歳の頃に触れた事があった茶道でも始めようかと考えていたところ、松葉杖で歩いていた頃の正月に、偶然某デパートで茶道具一式が半額になっていたのです。これは私に買ってもらうために半額になっているのではないか?と、勝手に思い込んで即購入したのでした。
その後、日本の伝統である茶の湯を楽しんでいますが、私は抹茶に干菓子だけではなく、季節に応じた和菓子を作っている、京都の老舗和菓子店の「末富」さんを利用しています。納入は日本橋高島屋店に京都から週2回、社長自ら新幹線で運ぶというこだわりの店です。茶道も本格的にやると、茶器、掛け軸、花器などを揃えなければならないのですが、それらの収集も楽しみにつながります。
昨年正月に「初釜」というタイトルで、別サイトのブログに茶道の話を書いています。宜しければご笑覧ください。同サイトで知り合った茶道家、「北見宗幸」さんのオフィシャル・ブログ「一服のもてなし」もリンクを貼りました。
”越冬ツバメ”、ツバメのように強く羽ばたいて、人生の試練を乗り越えたいものです。