青春の門 [邦画]
作曲:山崎ハコ
うちは 一人になりました
明日は 小倉の夜の蝶
そやけん 抱いてくれんね 伸介しゃん
どうせ汚れて しまうけん
・・・・・・
うちは あんたが好きやった
ばってんお金にゃ 勝てんもん
・・・・・・
60's Avenue [邦画]
1960年代に活躍された墨田区向島出身の俳優、山内賢さんが9月24日(土)に肺炎で亡くなれたことを最近知りました。享年67歳だったそうで、若い頃はスポーツカーを乗り回すスピード狂で、ソフトな外見とは違い喧嘩っ早い人だったと聞いていましたが、まだまだ活躍してほしかった年齢ですのでとても残念に思います。心よりご冥福をお祈りします。
「館一の回顧録」を立ち上げて間もない2009年8月16日の「1960年代の銀座」でUPした、1967年に公開された日活青春映画「二人の銀座」」と「東京ナイト」。
その人は昔 [邦画]
今日は中学生の頃に清楚な雰囲気が好きだった内藤洋子の誕生日で、1950年の寅年生まれなので御年61歳ですが、女優を引退した現在も美しくて素敵に年輪を重ねているようです。昨年6月9日のブログに内藤洋子が加山雄三と共演した、1968年公開の映画「兄貴の恋人」を書いたので、今日は1967年7月に公開された舟木一夫との共演映画「その人は昔」のシーンと挿入歌です。私はこの映画を観ていないけれど、北海道の襟裳岬そばにある百人浜でのシーンも綺麗です。因みに現在好きな女優はと云うと、松本清張原作のドラマなどに出演していて、ワイルドな雰囲気のある米倉涼子だよ~ん。
古き良き時代の銀座 [邦画]
一年前も書きましたけれど、桃の節句の本日3月3日は亡き父の誕生日です。存命していたら卯年生まれの96歳でした。父は先妻と死別していて母とは再婚でしたので、初婚だった母とは10歳以上の年齢差があって、私には年が離れた異母兄姉がおりますが、乳母日傘で育てられた末子の私は弟や妹がいる友人を羨ましく思った頃がありました。
私が1歳だった1955年秋に公開された映画「銀座24帖」のDVDが発売されて、昔の銀座は良かったと云う銀座通の人達の間で話題になっていますが、私がこの映画を初めて観たのは2007年秋のことで、銀座7丁目の「ハウス・オブ・シセイドウ」で開催された「スクリーンのなかの銀座」展で、銀座を舞台にした映画が1階のミニシアターで上映されたときでした。昭和に出会える博物館「ハウス・オブ・シセイドウ」は、資生堂本社ビルの建て替えのため今月末で閉館するそうです。
この映画は終戦から10年を経た1955年の銀座周辺が、学術的考察を交えた解説付きで映し出されていて、1957年5月に開店した有楽町そごうの建設中の映像や四丁目交差点辺りと、東京オリンピックの前に埋め立てられた掘割りや運河、築地川、銀座教会など、当時の銀座界隈の街並みも見られる映画です。
銀座には伝説になっているお洒落な喫茶店もありますが、1960年代に映画やショッピングで銀座へ行っていた流行に敏感な若者も利用した、みゆき通りの風月堂前にあった"ジュリアン・ソレル"や、"銀座ウエスト"、"トリコロール"、"いちこし"などは"みゆき族"も行っていた店で、フランスの作家スタンダールの長編小説「赤と黒」の主人公の名から付けられた、戦後間もない頃に開店したというブティック&ティールームの"ジュリアン・ソレル"は、晴海通りのテイメン本店2階にあったVAN SNACKと共に、私も中学時代から行っていて高校生の頃までありましたが、その後年月を経て現在はCHANEL並木通り店になっています。
並木通りに1950年に開店した"いちこし"は昨年の12月に閉店したそうで、私は"いちこし"のオリジナル紅茶「並木通り物語」とシフォンケーキが好きでしたので、銀座で馴染みの老舗がなくなってゆくのは寂しい限りです。"ジュリアン・ソレル"は「銀座24帖」と、石原慎太郎の小説を1956年に映画化した「太陽の季節」のシーンにも出てきます。
2009年12月の「自由の讃歌」でもUPした父との想い出がある曲、「LET US BEGIN BEGUINE」と、サンプリングに使われたJ.F.Kのスピーチです。
クレージー黄金作戦 [邦画]
東宝の若大将シリーズの生みの親と言われる田波靖男の脚本作品に、1960年代の東宝映画の柱を支えた、クレージー・キャッツのシリーズもあります。1967年10月28日に公開された「クレージーの怪盗ジバコ」は、北杜夫の原作を田波靖男と市川喜一の脚色で映画化した作品で、新年にDr.ScoopさんがDVDを送ってくださって私は初めて観ましたが、ストーリー展開もキャスティングもたいへん楽しく拝見しました。「クレージーの怪盗ジバコ」のワン・シーンで、ゴーゴー・クラブの歌手役の木の実ナナが「恋のフーガ」を英語で歌い、バンドのアウト・キャストは「一日だけの恋」をインストで演奏しています。アウト・キャストのシーンがYou Tubeにあったのですが、削除されているのでUpできません。
もう一本はシュガーさんから教えて頂いた「クレージー黄金作戦」で、田波靖男と市川喜一の脚色により、1967年4月29日に公開されたこの作品もとても楽しく観ました。この映画にはブルー・コメッツ、ザ・ピーナッツ、ジャニーズなどが出演しています。そしてワイキキ・ビーチで「君のために」を歌う若大将は植木等で、加山雄三が入れ替わり「お呼びでない・・・」となります。(爆)
愛と死をみつめて [邦画]
1964年に「愛と死をみつめて」を歌っていた青山和子さんの結婚話が先日報じられていて、63歳まで独身だった事には驚きましたが、日本中が涙した映画「愛と死をみつめて」と、青山さんの歌を想い出しました。
1964年9月に公開された映画「愛と死をみつめて」の原作は、大学生の河野 実さん(マコ)と、軟骨肉腫に冒されて21年の生涯を閉じた大島みち子さん(ミコ)との、3年間に及ぶ文通を書籍化した「愛と死をみつめて」で、1963年に出版されて160万部を売り上げる大ヒットを記録しました。吉永小百合さんと浜田光夫さんが主演した映画を観ていませんが、この年の4月にTBSの東芝日曜劇場で、二話完結編で放送された山本学さんと大空真弓さん主演の「愛と死をみつめて」を観て、当時小学4年生だった私の心をも強く打つ作品でした。
吉永小百合さんと、浜田光夫さんの劇場版です。
人は不治の病に冒されていると知った時、それを乗り越え、最善の方法をとって強く生きる努力をすることができるでしょうか。自分の死を、静かに受け止める事ができるでしょうか。生きたくても生きられない病との葛藤と、残された短い人生を強く生きることの意味を、大島みち子さんの著書からあらためて切実に感じています。"映画は原作を超えられない!"と云われるように、本からは映画や音楽よりもより濃く伝わります。
若きいのちの日記―「愛と死をみつめて」の記録 (だいわ文庫)
- 作者: 大島 みち子
- 出版社/メーカー: 大和書房
- 発売日: 2006/03
- メディア: 文庫
進め!ジャガーズ敵前上陸 [邦画]
私が中学二年になる1968年3月30日に、松竹映画『進め!ジャガーズ敵前上陸』が公開されました。画像は昨年の丑年に京都のNさんから頂いた年賀状のデザインで、中央にレイアウトされているのは、VANの1967年FWのキャンペーン「DISCOVER AMERICA」のプレミア・ステッカーで、左上にある牛の頭をモチーフにしている、キャンペーン・シンボルマークは、Early Americanの時代に実際に使われた大草原の道標だそうです。
このステッカーのイラストは、当時ヴァンヂャケット社、意匠室に在籍した渡邊かをるさんの作品で、青山のVAN本社新館右隣りにあった、駐車場のブロック塀一面にも描かれていました。それが映画のワン・シーンに、ジャガーズのリード・ボーカルだった岡本信と、当時てんぷくトリオのメンバーだった伊東四郎がこのイラストを背景に映し出されています。
デザイン・コンセプトは、VANの1966年FWのキャンペーン、「SPORTS AMERICAN」のシンボルマークがバッファローである事から、左下にそのシンボルマークがあるキャンペーンポスターを活用しています。右上の「MAN-MAKING」はサブテーマとしても存在していました。
私がIVYルックを知ったのが1965年で、始めたのが中学1年の1967年、「DISCOVER AMERICA」の頃でしたので、とても懐かしく当時を想い出します。
『進め!ジャガーズ敵前上陸』映画の映像です。
『ダンシング・ロンリー・ナイト』/1967年10月5日リリース。
作詞は、飯田久彦さんが歌った、「ルイジアナ・ママ」の"ビックリ仰天 有頂天"など、ユニークな歌詞を作った漣健児さんです。
映画の挿入歌はザ・ジャガーズ「君に会いたい」、「マドモアゼル・ブルース」、「ビート・トレイン」、「ダンシング・ロンリー・ナイト」、「哀れなジョン」。出演している中村晃子の「虹色の湖」と、泉アキの「夕焼けのあいつ」です。
何処かで だれかが [邦画]
『釧路night.ないと.ナイト』のテーマ曲、テッド・ヒース楽団の「ウーマン・ウーマン」の音源が鮫島宗哉さんから届きましたのでUPします。
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
テッド・ヒースは、1900年3月、英国ロンドンに生まれ、トロンボーン奏者として1925年にジャック・ヒルトン楽団に入り、次いでアンプローズ楽団を径て1937年にフリー・アレンジャーとして独立。第2次大戦末期の1944年に英国、国営放送であるBBCの依頼により、テッド・ヒースが組織した標準スウィング・バンド型のオーケストラ・バンド、「Ted Heath And His Music」 を編成しました。
1956年以降は定期的に米国でのコンサートを開き、ジャズの本場アメリカでも高く評価され絶賛されています。
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鮫島さんから届いたもう1曲は、1961年に公開された坂本九主演の東宝映画、「アワモリ君乾杯」の劇中歌で使われた『何処かでだれかが』です。この曲は「九ちゃん音頭」のB面で、作詞は鮫島さんのご友人のお兄様で、「11PM」などを担当した放送作家の菅沼定憲氏です。作曲は1960年代に人気を博したパラダイス・キングの、故ダニー飯田氏でした。「九ちゃん音頭」は、1962年に公開された松竹の同名映画のテーマ曲で、昭和30年代の新丸子を舞台にした青春映画です。
1960年代の銀座 [邦画]
私が洋楽に興味を持ったのは小学5年生だった1965年で、好きだったのはベンチャーズの"パイプライン"や"ダイアモンド・ヘッド"などでしたが、クラスの友人達の間でも”テケテケ・サウンド”が話題になっていました。放課後は鼓笛隊が練習している音楽室へ行き、友人にシンバルを持ってもらい私はスネアを台の上に置いて、初歩的なリズムを叩いていた、やんちゃ盛りの頃でした。
ベンチャーズの曲をカバーしたPOPSとしては、奥村チヨの「北国の青い空」、渚ゆう子の「京都の恋」などのヒット曲がありますが、ベンチャーズを最初にカバーした楽曲は1966年11月にリリースされた、和泉雅子、山内賢の『二人の銀座』だったと思います。私が好きな当時の曲の中でも、群を抜いていたのがこの曲で、レコードで初めて聴いたのは小学6年生だった1966年の暮れでした。当時既にG・Sでデビューしていたサベージ、シャープ・ホークス、ワイルド・ワンズがいましたが、まだG・Sブームにはなっていなく、歌謡曲が中心の時代でした。
『二人の銀座』は、1967年2月に上映された同名の日活映画の主題歌にもなり、同じく1967年にベンチャーズのカバー曲第二弾、『東京ナイト』がリリースされて、10月には同名の日活映画『東京ナイト』が上映されました。いずれも黄金の'60年代と言われた、当時の銀座のシーンが映し出されています。私としては晴海通りに面するビルの、地球儀をモチーフにした森永の広告塔を見ると懐かしさが込み上げます。
私は中学に入学した1967年頃から、友人と銀座へ行くようになりました。目的は1965年頃に興味を持ち始めていたIVYルックが元で、VANショップの1号店だったテイジン・メンズショップ本店と、数寄屋橋阪急店へVANの商品や小物を見に行く事でした。この頃は渋谷三峰、新宿伊勢屋、等‥のVANショップ。デパートにはVANコーナーがたくさんありましたが、やはりIVYというと銀座で、銀座でVANの服を買う事が一種のステイタスでもあったわけです。当時の私はIVYルックを着ていたせいか、周りからは高校生だと思われていました。(13歳から老けていたのかしら?)
中学からは私立の男子校でしたが、さすがに中等科にIVYは少なく、高等科には沢山いました。当時、高等科3年は団塊世代の1949年生まれ、2年が1950年、1年が1951年のIVY世代で、私はVAN REGALのスリッポンでしたが、ウイングチップやプレントゥを履いて通学する先輩達に憧れました。その先輩達のなかに私を可愛がってくださる人がいて、ブルーで襟に白のラインが入ったマンシングのポロを、もう着ないからとくれたり、VANのステッカーなども頂いていました。現在彼らは広告会社や通信会社の支社長などになっていますが、私はというと落ちこぼれました。(汗)
テイメン本店の2階には1966年にオープンしていたVAN-SNACKがあって、明るい採光のパーラーのような店で、当時としては新鮮だったハンバーガーとジンジャーエールが好きでした。マクドナルド・ジャパンが、1号店を銀座三越1階にオープンしたのは1971年でしたね。因みに私の元妻は、青山のVAN本社1階にあったテイメンヘ行っていたそうでした。当時私とすれ違っていたのかもしれませんね。すれ違い夫婦でしたので!(爆)
両作品の映像付きの音源を貼りました。リアルタイムでご存知の方も、そうでない方も当時の銀座をお楽しみください。生まれも育ちも銀座の、和泉雅子さんの舞妓姿が美しいです。現在も花柳界の名残りのある街、向島出身の山内賢さんも爽やかです。向島のエピソードをこちらに書いています。http://www.cafeblo.com/ivyscene1968/archive-20060912.html
先日のブログに書いた福岡のSさんは和泉雅子さんと同じ1947年生まれで、幼少の頃にNHKのテレビ映画などに出演していて、和泉雅子さんとも共演していました。その後、和泉さんは本格的に子役デビューをしていました。
「二人の銀座」
「東京ナイト」