TEKE IVY [ファッション]
米国の出版社Power House Booksから、8月31日に英語版の「TAKE IVY」が発売されます。1964年に海外旅行が自由化されて間もない1965年、1$360円の時代にVANが総予算500万円で行ったプロジェクトが、アメリカ東部の8大学アイビーリーグ取材ツアーでした。その写真集が'65年に発行された「TAKE IVY」です。タイトルはジャズの名曲"TAKE FIVE"から、当時VANの通訳を任されていた長谷川元氏がつけました。「TAKE IVY」は1975年に復刻版が出て、以降も再販された事がありましたが往年のアイビーファンにとってのバイブル的な1冊です。
プリンストン大学がある東海岸の小さな町プリンストンの、キャンパスとその横を走るメイン・ストリートである1965年のナッソー・ストリートです。マドラスのバミューダ、素足にペニーローファーのファッションに、街路樹、アメ車、すべてが絵になっています。
三笠宮寛仁親王は学習院高等科在籍時の1960年代に、アイビーファッション・ブランドのVANに出会って、スタッグ・クラブを結成しプリンス・アイビーと言われましたが、後のオックスフォード留学時に本物の洋服や着こなしを学んだ、とてもお洒落な方で今年3月に出版された「ジェントルマンの極意」には、当時のVANやテイジン・メンズショップの事などもお話されています。寛仁親王は'60年代初めに結成された立教大学のアマチュア・バンドのサークル、「T.I.C.(Tokyo Instrumental Circle)」で、作曲家の都倉俊一、後のヴィレッジ・シンガーズのメンバー小松久などと音楽活動もされていました。
T.I.C.と東京オリンピックの選手村で演奏をするなど、同時期に活動していた慶応高校のバンド、成毛滋がいたザ・フィンガーズの「ツィゴイネル・ワイゼン」です。
VAN Men's Cosmetics [ファッション]
画像は1963年(昭和38年)にVANが発売した男性化粧品シリーズが掲載された、「FIVE 6 SEVEN」1963年9月号の広告です。当時はバイタリスを使う人が多かったのですが、私が中学一年の頃に初めて使ったのは、「VANJAC」と似た爽やかな香りで角瓶ボトルのカネボウ「ダンディ」で、その後は「MG-5」シリーズの両方を使い、毎朝洗面所の鏡の前で20分くらいかけてアイビー・カットをきめたものでした。まず7:3の分けめをドライヤーでセット、頭頂部の毛を前に梳かし、ドライヤーをあてて前髪をうえに上げてヘア・チックをぬって完成。櫛はVANの皮ケース入りの、アルミ・コームでした。昔と少しデザインの感じが違うような気がするけれど、ビンテージ・コームが出ています。価格は当時@380円、現行商品@4725円。
そういえば当時使っていたヘア・ドライアーは、コンパクト・サイズの赤いボディにIVYのロゴが入ったものでしたが、ナショナル(旧)の商品だとばかり思っていたら、n-projectさんのブログによると、サンヨーのアイビー・シリーズでした。VANコスメの詳細は「n-project」さん、商品の実物画像は「ハリマオ先生」のHPへどうぞ。(ハンドル・ネームをクリックするとリンクします)
「FIVE 6 SEVEN」の1963年8月号、VANの広告です。この時代にアンクレットをした女性が斬新ですね。
MG-5のヘア・リキッドとソリッドの整髪料2種類が、1963年に発売された頃のCMです。MG-5は1967年7月にボトル・デザインが一新されて、当時はオーデコロンやタルカム・パウダー(ボディ・パウダー)など、シリーズ23種類で商品展開されていました。中学生の私は髭を剃ることがないのに、何故かアフター・シェーブ・ローションや、スキン・クリームもありました。(笑い)
1967年から1968年頃にON・AIRされた、MG-5のCMです。チェッカー・フラッグのフェイス・タオルや、伸縮する鏡がカッコよかった。
1967年の平凡パンチデラックスの付録です。
現在はダンヒルを使用していますが、特に「エディション」は23年前に日本で発売されたときに、神戸の友人から頂いて以来、ライトシトラスの香りが気に入ってずっと使っています。もうひとつはポケット・ウィスキーのような、ボトル・デザインも気に入っています。ロゴが裏側に逆並びに付いていて、逆向きに見るようにデザインされているので、写真では見にくいと思います。
IVY SISTER [ファッション]
先日、木の実ナナが着ていたEIFFELのIVY SISTERSの、ロゴ・マークをUPしたところ、n-projectさんから大きな画像が添付されたメールを頂きました。いつもありがとうございます。
アイビー・ブームが全盛期の1966年に、MEN'S CLUBの妹版として「MC・SISTER」が創刊されて、アイビー・リーガーと共に、アイビー・シスターがトレンディな時代でした。SISTERの初期のモデルにはMEN'S CLUBでも活躍し、丸善石油のCM「Oh!モウレツ」で一世風靡した小川ローザがいます。小川ローザのご主人は1970年8月に鈴鹿サーキットで、トヨタ7のテスト走行中に事故で亡くなられたレーサーの川合稔氏でした。
1965年12月に上映された「エレキの若大将」で、松本めぐみのバンドが「アイビー・シスターズ」でしたね。1980年代にはIVY SISTERSの、「涙のリトル・ガール」という邦盤のレコードがあり、1960年代に「The IVY LEAGUE」という、英国のグループがいました。
福澤幸雄とEDWARD'S [ファッション]
画像右端のトレンチ・コート姿の男性は、福澤幸雄さんです。団塊世代のalpshimaさんという方が学生時代だった1967年に、当時パリ在住だった福澤幸雄さんとお会いしたときに写されたスナップです。alpshimaさんに承諾をいただいて、オリジナル画像をUPしました。
1960年代のファッション・シーンを語るときに欠かせないのが、当時アイビー・ルックと共に流行したコンチネンタルやモッズ・ルックですが、その人気ブランドが福澤幸雄さんが取締役企画部長、デザイナーをされていた「EDWARD'S」でした。紙袋にデザインされていた私が好きだったグラフィカルなタッチのイラストは、エドワーズの広告を手掛けていたイラストレーターの伊坂芳太郎さんが描かれていました。
モッズ・ルックはロンドンのカーナビー・ストリートを中心に発信された、モダーンズ(モダニズム)を略してモッズと呼ばれたファッションで、特徴はモッズ・キャップと呼んでいた船員帽のダッチ・キャップ、細身のスーツに幅広ネクタイ、ドットやリバティ・プリントなどのウエストを絞ったシャツに股上の浅いスリムパンツ、ブーツなどがありました。
画像は1960年代の雑誌で、左からアイビー、カジュアル・スタイル、モッズ、コンチです。
画像は1966年4月15日にリリースされた、First Albumです。田邊昭知さん、かまやつ ひろしさんが被っている、モッズ・キャップが懐かしい!
六本木がまだ閑静だった1960年代初頭に、飯倉にあったレストラン「キャンティ」、六本木「ハンバーガー・イン」などにたむろして、マスコミの話題になった「六本木族」と呼ばれたトレンディな若者達がいました。ヨーロピアン志向の彼らが数年後に好んで着たブランドが、EDWARD'Sだったそうです。昔読んだ雑誌のコラムに、かまやつ ひろしの友人がEDWARD'Sにいて、彼もEDWARD'Sの服を好んで着ていたと書かれていました、その友人とは福澤幸雄さんで、スパイーダースのメンバーもミリタリーのユニフォームの前はモッズでした。
60's Avenue [ファッション]
スリッポンとキャンバス・デッキタイプ/1966年発売価格@850円
3月7日の「バミューダ・スリッポンと加山雄三」に、1965年に発売されたVANのバミューダ・スリッポンをUPしましたが、1966年に「平凡パンチ」との共同企画で、月星化成(現、株式会社ムーンスター)から発売された、パンチ・シューズというネーミングのカジュアル・シューズがあって、VANやJUNのスニーカーと共にアイビーリーガースにも人気がありました。画像のタイプは1967年から68年の中学時代に私も履きましたが、今見てもカッコいいですよね。他にもPUNCHシューズは1966年から71年まで、モンクストラップのブーツや、コールテンのスリッポンとチャッカーブーツ、私の記憶では'67年頃にコールテンのサイドゴア・ブーツもあったと思うので、ムーンスターさんにこのシリーズを是非再発売して頂きたいですね。
PUNCHシューズのマークには平凡パンチのアイドル・マークである、WINK OWL(ウィンクアウル)が採用されていますが、このWINK OWLのデザインは当時ムーンスターの顧問デザイナーでもあった、グラフィック・デザイナーの大橋正氏の作品です。大橋氏は京都のご出身で大阪大丸百貨店、京都大丸百貨店を経て、1940年に日本電報通信社(現、電通)に入社。太平洋戦争後フリーになり、1950年にキッコーマンのキャラクター、"キッコちゃん"を制作した方で、デザイナー、アートディレクター、イラストレーターとしてご活躍されて、1961年~67年まで武蔵野美術大学講師、1981年~85年まで同大学の客員教授をされていましたが、1998年に享年82歳で永眠されました。
サックスのキャンバス・デッキ/1970年
1966年のビルボード・ヒット・チャート、11月の第一位に輝いたザ・モンキーズの「恋の終列車」と、12月の第一位「アイム・ア・ビリーヴァー」です。
大橋正 ggg Books29(スリージーブックス 世界のグラフィックデザインシリーズ29)
- 作者: 大橋 正
- 出版社/メーカー: トランスアート
- 発売日: 1998/06
- メディア: 単行本
ザ・モンキーズ / ヘイ・ヘイ・ウィ・アー・ザ・モンキーズ [DVD]
- 出版社/メーカー: コロムビアミュージックエンタテインメント
- メディア: DVD
60's Avenue [ファッション]
1967年の銀座通りです。この画像をお借りしている方が1967年12月に、銀座通りの都電が廃止される最終日に写されたものです。
画像は1964年に創刊された雑誌「平凡パンチ」が、1965年に企画したモダンジャズのアルバムです。収録曲はベンチャーズ、ビーチ・ボーイズなどのヒット曲を、一流のジャズ・プレイヤによる演奏で録音されています。イラストレーターの大橋歩さんが担当した平凡パンチの表紙は、「みゆき族」を描いたものでしたが、ひとつのアートとして「大橋歩の世界」があります。
東京オリンピックが開催された1964年の春から夏にかけて、銀座"みゆき通り"にアイビールックの若者が集ったことから「みゆき族」と云われ、マスコミにも取り上げられてひとつの社会現象になりました。この1965年前後のアイビーブーム全盛の頃に、高校生だった団塊世代のアイビー少年達が着ていたのが、下の画像で井上忠夫さんが着ている黒いエナメルのバルマカン・コートでした。このレイン・コートは東京だけの流行に留まらず、新潟や札幌出身の知人達も高校時代に着たそうでした。今思うとこの時代の高校生は七:三分けのアイビー・カットが爽やかで、とても大人っぽい雰囲気をもっていました。私の友人、知人にも団塊世代の方々がおりまして、現在は上場企業の役員やご自分で事業を起こされている方が多く、還暦を過ぎた今もバリバリの現役で、数人の方々は今でもアイビーです。「みゆき族」の詳細は【若者たちに占領された夏】(←クリックしてご覧ください)に書いています。
「団塊世代」とは1947~1949年に誕生した人々を指し、堺屋太一さんの小説「団塊の世代」が1976年に発刊された頃からこの言葉が使われるようになりました。昨年12月7日の「日経ビジネス」に「団塊モンスター」という特集記事が掲載されていて、主に「団塊世代のクレーマー(団塊モンスター)」が如何なるものか、そして企業における彼らの攻略法について書かれています。「団塊世代が定年を迎えてもパワーをもてあまし、企業や地域を相手にクレーマーもどきとなって大暴れ。」これに対して彼らをモンスター視せずに、味方として活用しようという主旨のようでした。要するに高度経済成長期に青春時代を謳歌した彼らは、音楽やファッションなども含めて、日本の若者文化が形成された時代の、オピニオン・リーダー的な存在でしたので、リタイア後も社会に向けてのパワーがあり余る世代ということなのでしょう。そう云う私も四捨五入すると還暦になる年ですが、まだまだ暴れますよ。(爆)
グループ・サウンズも団塊世代が中心によるものでしたが、1968年8月にリリースされた「レオ・ビーツ」の"哀愁のシルバー・レイン"に、当時流行した"♪君のエナメルコートを 濡らした雨は・・・"という歌詞があります。この曲は、G・Sブームが衰退し始めた頃のムード歌謡路線です。
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
1967年11月に"霧の中のマリアンヌ"でレコードデビューした「レオ・ビーツ」は福岡出身のグループで、博多で活動していた「ザ・ハプニングス・フォー」の前身のラテン・バンド、「サンライズ」にいたメンバーが結成しました。ネーミングは当時福岡にあった西鉄ライオンズ(現、西武)から付けられています。1969年4月に公開された加山雄三の主演映画「二人の恋人」では、レオ・ビーツのセカンド・シングルのB面、"あなたの影"を演奏するシーンがあります。
RAIN [ファッション]
画像は昨年の秋に「霧雨の舗道」でもUPした、「Mackintosh・Philosophy(マッキントッシュ・フィロソフィー)のパッカブル・レインコートです。春の肌寒い日や鬱陶しい雨の日も、爽快にお洒落を愉しめるアイテムです。生地はシレー撥水加工が施されていて、(シレーとは生地の表面をつぶし、光沢感を出す加工です。)コンパクトに折りたためて収納袋も付いているので、傘のようにバッグに入れて携帯も可能です。マッキントッシュは、1880年代にチャールズ・マッキントッシュによって発明された、防水コートを起源とするブランドで、スコットランドではレインコートといえば、マッキントッシュというくらい生活に根付いている、英国を代表するアウターウェアの歴史あるブランドです。
学生の頃は旧VANのダークマドラスや、オフホワイトのレインコートを着ましたが、こちらはVANの新作、ブラックウォッチのショートコートです。
雨のタイトルが付いた、私の想い出の曲を2曲UPします。プエルトリコ出身の「ホセ・フェリシアーノ」の1969年のヒット曲"雨のささやき"と、ベルギー出身の「サイモン・バタフライ」の1973年のヒット曲"レイン・レイン"です。
VAN SNEEKER [ファッション]
アイビー・ブームが全盛期だった1965年2月に、ヴァンヂャケットからコンバースの「ALL STAR」タイプでハイカットの「シューター」と、ローカットの「サーバー」の白と黒の2種類が発売されました。当時は運動靴をズックと呼んでいた時代ですので、このネーミングは画期的なものだったと云えます。発売当初の価格は「シューター」が1250円、「サーバー」が950円です。この「シューター」は1966年には「マーカー」という名に変わりますが、1967年2月号のMEN'S CLUBの最終ページの広告を見ると「シューター」に戻っていました。
私が中1の頃に履いていたスニーカーが「シューター」でしたが、当時「RUDDER」というヨット・タイプのSNEEKERもありました。スペルの違いに気付かれたと思いますが、「Sneaker」を「Sneeker」としたのは石津謙介氏の遊び心からだそうで、箱の文字もEの部分が赤になっていました。
以前ご紹介させて頂いていた『一流リーダーは"見た目"が違う』を執筆された、芝孝史さんからのメールに、「VANのネーミングはすばらしいです。それぞれのスポーツにちなんだネーミングをしています。特にRudderはヨットの舵のことなので、ヨット・シューズであることが推測し易いし、シューターもサーバーも然りです。」とあります。1歳年上の芝さんは1964年からIVYを始めた方で、中学生の頃に都内のホテルのプール・サイドで、ヨット・パーカーにバミューダ、靴はバミューダ・スリッポンという、リゾート・ウェアのTPOを当時から着こなしていた人なので、現在はIVYではありませんが、細部にこだわりのあるコーディネイトをされている、ファッション感覚にも優れている人です。
1960年代と云えば、ザ・ビーチ・ボーイズ!マドラス・チェックのスイム・ショーツ、ロング・ボード、フラフープなど、黄金の'60年代の映像が満載です。浜辺で踊る女性のファッションとヘアスタイル、ツイスト、スウィング、スイムなどのダンスも懐かしいです。
芝孝史さんが共著で出版されている『なぜこの会社は変われるのか?』は、人材アセスメントのエキスパートである芝孝史さんが、外部コンサルタントとして本書の第1章から第3章まで、人材評価と新しい人事制度をテーマに論じられています。「人は石垣 人は城」、先行きが不透明な時代だからこそ、的確な人材評価と育成を行うシステムの構築は、企業経営者や人事担当者のみならず、ビジネスマン必見の一冊です。
なぜ、この会社は変われるのか?―ライオン(株)に学ぶ「社員の育て方」「組織の活かし方」
- 作者: 今井 秀之
- 出版社/メーカー: 大和出版
- 発売日: 2009/05
- メディア: 単行本
一流リーダーは「見た目」が違う―人を動かす外見・表情・しぐさから、信頼される聞き方・話し方まで
- 作者: 芝 孝史
- 出版社/メーカー: 大和出版
- 発売日: 2006/11
- メディア: 単行本
バミューダ・スリッポンと加山雄三 [ファッション]
画像は「ハリマオ先生」のアイビー専科からお借りした、VANの「バミューダ・スリッポン」です。バミューダ・キャンペーンは1965年と1966年の2年に渡り行われ、1965年に発売されたこの靴の素材はコットンのホップサックで、ソール部分の縁には麻紐が編み込こまれています。色は生成り、ブルー、ブラウンの3色があり、同時発売の「バミューダ・チャッカー」という、生成りのチャッカー・ブーツもありました。ちなみに「バミューダ・スリッポン」が1000円。「バミューダ・チャッカー」は1300円でしたが、大卒初任給が24000円程の時代ですので、1965年の1000円を現在に換算すると16000円くらいの価値になります。'60年代のVANの商品価値は、まさしく高嶺の花だったのですね。私の記憶違いで、発売年と素材に誤りがありましたので訂正しました。
レコード・ジャケットで加山雄三さんが履いているのが、生成りの「バミューダ・スリッポン」だと思います。私が知っている画像だけでこの3枚があるので、加山さんはこの靴を気に入っていたのか、又は撮影時の衣装提供がヴァンヂャケットだったのだろうか。
FOR THE GOOD TIMES [ファッション]
画像はDr.SCOOPさんのところでUPしていた、VANのクリスマス・キャンペーン用の木製ボードを拝借しました。薄くなっていますがトナカイの下、柊の横にゴールドでVANのロゴが輝いています。私は初めて見るのですが、このキャンペーン・ツールは超がつくレア物です!
「ペリー・コモ」の『For The Good Times』、『Try To Remember』です。1983年6月にリリースされた加山雄三のアルバム、「FOR THE GOOD TIMES」にカヴァー収録されてる御本家の曲です。音源はタイトルにリンクしていますので、クリックをしてお聴きください。
今日は2月25日ですので、二ヶ月戻って『White Christmas』です。
館一サンタです!(爆)。以前アメリカーノさんのブログで紹介されていた、コラージュを真似てみました。
JUN FOR YOUNG MEN [ファッション]
今年で51周年を迎えた(株)JUNですが、1960年代中盤まではアイビーを展開していたブランドです。勿論トータル・ファションですので皮靴、スニーカーもありました。私が好きだったのはJUNのチャッカーブーツと、当時アメリカで流行したヒッピー・サンダルのような、皮製のビーチ・サンダルで、マドラス・チェックの布製巾着袋に入って売られていて、紐の部分にはJUNのロゴ入りの皮製のタグが付いていました。バミューダ・ショーツや、ヨット・パーカーなど、JUNはビーチ・ウエアの発売が比較的にVANより早かったようです。
1965年前後のIVYブームの頃、IVYルックの二代ブランドだったVANとJUNで、順番(JUN、VAN)を競うというシャレもありました。当時、みのもんたがDJをやっていたラジオ番組の中で、伴淳三郎のギャグ"伴淳アジャパー"を引用して、IVY二大ブランド"VAN、JUNアジャパー"とやったところ、リスナーから抗議の葉書が殺到したというエピソードがあります。それほど当時の若者達の心をつかみ、一世風靡したブランドだったのです。
JUNとして、コンチネンタルも並行して展開していましたので、IVYブランドは「JUN COLLEGIAN」で、ヴァンヂャケットですと「VAN」にあたります。「VAN BROTHERS」の年齢層には「JUN JUNIOR」、1967年以降の「Kent」ラインは「JUN MADISON UNITY」のブランドで展開されていました。中学1、2年の頃に「JUN JUNIOR」を私も着ましたが、セーターやヨット・パーカーなどの生地と縫製、色が気に入っていました。
ラジオ番組で「ティーン・ビート・アワー・ザ・ビートルズ=DJ高崎一郎(ニッポン放送・ラジオ大阪)」、「ジュン・ミュージック・タイム=DJ糸居伍郎(ニッポン放送)」、「ジュン・サンデーナイト=浜村淳、山田フミ(ラジオ大阪)」、テレビ番組では「ハリウッド・ア・GO-GO(フジテレビ)」をJUNが提供していました。
JUNには作詞:三田ジョージ、作曲:小林亜星、歌:鹿内タカシの、『JUN FOR YOUNG MEN』が存在しました。1960年代に放送されていた、VANの番組については次回特集します。
アイビー東京 [ファッション]
『アイビー東京』1966年
先日、IVY関連の検索をしていたら、「ハリマオ先生の資料室」というH・Pにヒットしました。1960年代のVAN、JUNの商品やグッズ、ステッカーなどが掲載されている、アイビー専科のカテゴリーと、昭和歌謡、加山雄三、G・Sを採り上げて書かれている内容が圧巻。大変興味深く読ませて頂いたところ、なんと!京都のNさんとお知り合いの方ではありませんか!世の中広いようで狭いなあと思いながら・・・、これも何かの縁ではないかと嬉しくなったのでした。
ヴァンヂャケット社から届くD・Mに、FALL&WINTER/2009の新作アイテムがあり、テーマは「温故知新」。1960年代のVANを髣髴とさせるデザインがありました。中学時代からライン入りのセーター、カーディガンが好きで、沢山持っているのに又欲しくなりましたので、サンタさんに少し早めのX'masプレゼントをお願い致しました(爆)。フルジップ・カーディガン@17,850円、B・Dシャツ@9,240円。'60年代の価格帯に比べると、かなり安くなりました。
『泣かないで』
1965年に発売されたレコードですが、IVYストライプのB・Dが渋いです。望月浩は1966年のビートルズ武道館公演で、前座を務めた一人です。
同好の士 [ファッション]
長引いている今回の北海道での仕事は、最初は3年前の11月に私の会社のクライアントからオファーを頂いて、1件は昨年の3月に終えて東京へ戻っていましたが、再度、別件のお話を頂いて一度はお断りしたのですが、この不況下では仕事を選んでもいられないので、お引き受けする事にして昨年の11月に再赴任して現在に至っています。
東京と北海道では二重の経費が嵩みますので、出来る事ならば東京もしくは首都圏でのビジネスが成立するのが理想ですが、このご時世では企業の広告、宣伝費の削減が甚だしくて、仕事を確保するのが困難な状況です。今は東京の仕事関係者とのコミュニケーションも侭成らなくて、電話やメールだけでは意思の疎通は図れません。必然的にプライベートのお付き合いも出来ない状態にストレスを感じ始めています。
学生時代と違い、社会人になると新しい友人との出会いは難しいものですが、8月10日の「北国の夏は短くて」に書いたように、3年前の夏にネットで知り合ったIVYをこよなく愛すサークル、AMERICAN・TRAD・CLUBの皆さんとの出会いは、少年時代に熱中した価値観を共有できるようで、50歳を過ぎてからのとても嬉しい出会いになりました。皆さん、とても気配りのあるダンディなIVY LEAGUERSです。
昨年の3月、AMERICAN・TRAD・CLUBの皆さんと。
昨年の4月、名古屋BLAZEの皆さんと。
名古屋BLAZEのエンブレム。
young-at-heartは永遠のスローガンです。
'60年代のファッションが爽やかですネ!FUKUZOのポロシャツも懐かしい!