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ザ・サベージ [G・S]

ベンチャーズなどの影響から、空前のエレキ・ブームとなった1960年代に、アマチュア・バンドが多数出演して演奏を競う、フジテレビの番組「勝ち抜きエレキ合戦」や、日本テレビの「世界へ飛び出せ!ニュー・エレキ・サウンド」といった、バンド・オーディション番組ありました。1965年6月から1966年9月28日まで放送された、「勝ち抜きエレキ合戦」で4週連続チャンピオンとなり、「世界へ飛び出せ!ニュー・エレキ・サウンド」でもグランドチャンピオンとなって、ホリ・プロダクションの堀威夫社長の目にとまり、1966年7月1日に「いつまでもいつまでも」でプロ・デビューしたのがザ・サベージです。当時サベージの対抗馬となったグループは、1967年6月15日に「いとしのジザベル」でデビューしたザ・ゴールデン・カップスでした。

「勝ち抜きエレキ合戦」の栄光の第一回チャンピオンは、アメリカン・スクールの学生だったザ・ディメンションズです。そして、どのバンドもかなわなかったと言う最強のチャンピオンは、1962年に慶応義塾高校の学生が結成し、成毛滋がいたバンド、ザ・フィンガーズでした。2007年3月29日に60歳で亡くなった成毛滋は、ブリヂストン創業者である石橋正二郎の孫で、鳩山威一郎の甥にあたるので、鳩山由紀夫、邦夫兄弟とは従兄弟です。加山雄三と、その従弟であるザ・ランチャーズの喜多嶋兄弟も塾高から慶大の出身です。

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You Tubeにアップロードされていない、ザ・サベージのあまり知られていない楽曲です。「夜空に夢を」で1番と間奏後の3番を歌っている、奥島吉雄(左から二人目)のボーカルが好きです。2番のボーカルをとっているのは、「ルビーの指輪」で知られる寺尾聡です。

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1967年2月15日にリリースされた、3枚目のシングルです。


ロザリオは永遠に! [G・S]

元オックスのオルガン奏者で俳優の夏夕介さんが、胃癌のため1月27日に亡くなっていた事を昨夜知りました。ご冥福をお祈りします。今年10月に還暦を迎える59歳でした。夏夕介さんは「特捜最前線」などのドラマにも出演していました。昨年は元ジャガーズのボーカル、岡本信さんが還暦を迎える直前の4月に59歳で亡くなっていますので、1960年代後半に大ブームを巻き起こした、G・Sのヒーローが数年前から続いて他界しています。
1969年5月にオックスの赤松愛が抜けた後、1969年6月25日にリリースされたロザリオは永遠に」から、田浦幸(本名:田浦久幸)という名でオルガンを担当していました。オックスが1971年5月31日に、池袋のジャズ喫茶「ドラム」でのステージを最後に解散する直前に、夏夕介がリリースしたソロ・シングルの第2弾「愛と栄光の日々」は、数多くのG・Sヒット曲を手掛けた橋本淳:作詞、すぎやまこういち:作曲のコンビによるG・S風の曲でした。
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ロザリオは永遠に音源はタイトルをクリックしてお聴きください。
後列右が夏夕介(田浦幸)さんです。端整な顔立ちをしていますね。
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1968年夏のオックスのステージ、「銀座ACB」です。

札幌雪まつり 2010 [G・S]

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昨日2月5日(金)から、「札幌雪祭り」が始まっています。今年で第61回目の開催だそうで、まだ戦後と言われていた1950年代のモノクロ映像を観る機会がありましたが、当時の札幌の街並みもなかなか情緒のあるものでした。因みに私は父の仕事の関係で、幼少期の短い間でしたが、両親と私の3人で北海道に住んでいましたので、当時の札幌駅や大通り西11丁目辺りを何となく覚えています。1971年~74年迄の3年余りをHBC札幌放送局と釧路放送局で、アナウンサーをされていた鮫島宗哉さんが仰っていたように、私も北海道を第二の故郷のように思います。

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昨年8月10日の「北国の夏は短くて」にUPした、北海道出身のグループ・サウンズ、ザ・サマーズは、主にHBC札幌放送局のラジオ番組を中心に活動をしていて、当時、コロムビア札幌営業所の担当者の目に留まり、デノン・レーベルから1968年10月に「たった一言/今も」でデビューしました。1969年3月に発売された2枚目のシングル、「恋の終わりが好きさ/悲しみの跡」をUPしますが、B面の「悲しみの跡」は、"絹子"という女性との悲恋を歌った、クラシック調のストリングスのイントロと、エレクトーンのメロディー・ラインが好きです。当時はG・Sブームが衰退し始めて、G・Sがムード歌謡路線に移行した頃でしたので、上記の2曲も歌謡曲調ですが、作詞:作曲共にサマーズのオリジナルとしては良いと思います。

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BLUE CHANSON [G・S]

ブルー・コメッツは2000年に井上忠夫さんが亡くなった事で、ファンからの強い要望もあり翌年の2001年10月に再結成し、2002年10月には30年ぶりにアルバムがリリースされました。現在もブルー・コメッツのファンクラブ、「蒼い彗星」があるようです。

先日の「シルク・ロード」に書いた、六本木の「シルクロード」という店の向かいに、17年前ですがジャッキー吉川さんが経営するライヴ・ハウス、「ニュー・ブルーコメッツ」がありました。ボーカル、サックス、フルートのパートだった井上忠夫さんは私の知人の知り合いで、銀座の老舗鮨店の息子だったと聞いています。井上忠夫さんが井上大輔でCM音楽を数多く作っていた頃、仕事でお会いしたことがありましたので、2000年5月30日の自殺の訃報を聞いたときは、本当に悲しくて残念でなりませんでした。 

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海辺の石段』 (音源はタイトルをクリックしてください)

G・Sブームが衰退し、歌謡曲路線に入った1969年10月にリリースされました。井上忠夫さんの歌い方に、能楽のセリフのような節回しを感じます。琴の音色と女性のスキャットが入る、古典的なアレンジと詞も良いです。

ブルコメでキーボード、ピアノを弾いていた小田啓義(オダ ヒロヨシ)さんは、1985年にダン池田に代わりビッグ・バンドの「ニューブリード」を継承し、「小田啓義とニューブリード」のバンド・マスターとして、第36回NHK紅白歌合戦を指揮しましたが、1986年に三原綱木さんに後任を譲り、現在は作曲や編曲、コンサート活動をする一方、「OH! MUSIC音楽教室」を主宰しています。ベース・ギターの高橋健二さんは現在、経理の仕事をされているそうで、以前、錦糸町の丸井で見かけた事がありました。

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ブルー・シャンソン』 (音源はタイトルをクリックしてください)

1969年4月にリリースされた『涙の糸』のB面ですが、A面よりもこちらをよく聴いていた想い出の曲です。


北国の二人 [G・S]

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北国の二人」音源はタイトルをクリックしてお聴きください。

1960年代後半のヒット曲に、布施明の「霧の摩周湖」、ブルー・コメッツの「北国の二人」、奥村チヨの「北国の青い空」、東京ロマンチカの「小樽の人よ」、三田明の「サロマ湖の空」など、北海道をモチーフにした楽曲が多いのですが、北海道に感じるロマンティックなイメージと、1972年2月に開催された札幌冬季オリンピックに先駆けて、レコード会社が北海道のイメージを意識したプロモーションで、楽曲をリリースしていた時代でもありました。東京で生まれ育った私の友人達からは、北海道は憬れの地で、そこで仕事を出来る事が羨ましいと云われます。

1967年9月にリリースされたブルーコメッツの10枚目のシングル、「北国の二人」作詞:橋本淳/作曲:井上忠夫。「銀色の波」作詞:橋本淳/作曲:三原綱木は、A面B面がベスト・カップリングで私が中学生の頃に好きだったレコードです。

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♪夜の渚で あなたはひとり 白い白い波が 素肌をぬらす・・・。「銀色の波」音源はタイトルをクリックしてお聴きください。

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以前、中村晃子のヒット曲「虹色の湖」をUPしたことがありましたが、中村晃子のG・S歌謡には1968年3月1日にリリースされた「砂の十字架」という隠れた名曲がありました。この曲の歌詞にも"♪北の渚は 果てなく青く・・・赤いハマナス 一輪挿して ひとり祈ろう愛の十字架"と、北海道の砂浜が歌われています。


タグ:摩周湖

OUT CAST [G・S]

北海道は日毎に寒さが増して、東京の気温と比較すると10℃前後の寒暖差があります。季節に合わないのですが、今日は私が好きだったグループであるアウト・キャストの、夏の砂浜を歌っている「レッツ・ゴー・オン・ビーチ(1967年7月10日リリース)」と、「一日だけの恋(1967年10月15日リリース)」、をUPします。久々にグループ・サウンズです。

1966年春に結成されたアウト・キャストは、1967年1月25日に「友達になろう」でデビューして、渡辺プロダクション初のG・S第一号となっています。タイガースが同じナベプロからデビューしたのが1967年2月でしたので、アウトキャストが少し先だったのですね。「レッツ・ゴー・オン・ビーチ」がリリースされた、1967年7月10日の「ヤング720」に出演していました。

1967年7月
01日 土 フォーメイツ 森山良子
02日 日    
03日 月 シャープファイブ 森山良子
04日 火 ワイルドワンズ  
05日 水 ブルーコメッツ 森山良子
06日 木 サベージ  
07日 金 デキシーキングス  
08日 土 尾藤イサオとバロン  
09日 日    
10日 月 アウトキャスト  
11日 火 トニーズ  
12日 水 プラネッツ ウェファラーズ
13日 木 タイガース テセラーズ
14日 金 ジャガーズ ハニービンズ
15日 土 カーナビーツ 木の実ナナ
16日 日    
17日 月 ブルーコメッツ  
18日 火 山内賢とヤング&フレッシュ  
19日 水 シャープホークス  
20日 木 スパイダース テンプターズ
21日 金 山内賢 和田浩治 三保敬太郎
22日 土 パラダイスキング 田辺靖雄
23日 日    
24日 月 ビーバーズ 中川三郎
25日 火 ブルーファイア 佐良直美
26日 水 オールスターズワゴン  
27日 木 ヴァンドッグス  
28日 金 ゴールデンカップス  
29日 土 パラダイスキング 浅丘ルリ子
30日 日    
31日 月 ワイルドワンズ

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ザ・スウィング・ウエスト [G・S]

「霧雨の舗道」に続いて、今日は「雨のバラード」です。北海道は11月に入ると寒気が降りて、市街地も雪になるようです。

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雨のバラード』『幻の乙女』 

1968年5月10日にリリースされた「幻の乙女」のB面「雨のバラード」は、スウィング・ウエストの解散後に、ボーカルの湯原昌幸が1971年にセルフ・リメイクして大ヒットしました。

A面の「幻の乙女」は、テンプターズなどのヒット曲を書いていた、なかにし礼さんの作詞です。当時はフィーリングで聴いていたので気にならなかったのですが、歌詞の部分に「ガラスの手袋してたから 涙を拭けず泣いていた・・」、「銀のブーツが重たくて 疲れた足取りとぼとぼと・・」とあります。すごいですよねぇ!でも幻の乙女ですから、まあいいでしょう。


The Ox 「Girl Friend」1968 [G・S]

札幌ドームが熱いです!日本ハムファイターズvs楽天の今夜の試合で、STV(札幌放送)のアナウンサーと共に実況解説をされたのが、日本ハムファイターズの元ヘッド・コーチである、「白井一幸」さんでした。写真で見るよりも実際にお会いした印象は、外見も人柄もとても爽やかな素敵な人でした。現在、彼は野球のコーチではなく、今やビジネス、個人に必須と思われるコミュニケーション・ツールである、コーチングのネイティブ・コーチをされています。

白井一幸さんは、同業のコーチング・コーチをされている、私の友人である福岡のSさんの知人で、今年2月にSさんからご連絡を頂いて白井一幸さんとは北海道講演でお会いする予定でしたが、猛吹雪で飛行機が新千歳に着陸出来ずに羽田へ引き返した為、講演は中止となりお会いする事が出来ずにいたのでした。

今日の音楽は1968年5月5日にリリースされた、オックスの『ガールフレンド』です。東京の住まいのマンションで、ある日エレベーターに乗ったらワイルド・ワンズのドラマーだった植田芳暁と、オックスのボーカルだった真木ヒデトがいてビックリした事があったのですが、私の部屋の階下にスタジオ・ミュージシャンが住んでいて、なんでもGSのCDを作る企画があって、頻繁に彼のところへ訪ねていたそうでした。中学時代にアイドルだったお二人ですので、私にとっては嬉しいSurpriseだったわけです。

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音源はこちらです

先日のブログに書いたように、1968年春に学校の友人達とバンドを結成して、レパートリーにはこの曲も入っていました。音源はオックスのライブ・アルバムからで、野口ヒデトと観客全員が期せずしてこの曲を大合唱している臨場感に、当時を想い出したら涙が溢れました。(笑い)

1990年に大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」の、アトラクションで結成された「タイガース・メモリアル・クラブ・バンド」の大阪アリーナでのコンサートから、「真樹ひでと」がソロをとる『ガール・フレンド』です。


太陽の剣 [G・S]

12日、前原国土交通相が示した、羽田空港のハブ空港化。羽田空港再拡張事業に資金協力する、県や横浜、川崎市は一層の機能強化に歓迎を表明した。というトピックスを見て、海外の例を取っても「ハブ アンド スポーク」は利用者にとって快適な事なのですが、空港近辺の住民にとっては如何なものなのでしょう。成田空港の至近距離に住む後輩の家では、各エアラインの離陸時に窓ガラスが振動し、とても不快だと聞いています。

taiyounoturugi.jpg太陽の剣

メランコリー東京.jpgメランコリー東京

今日の音源は空港に因み、1968年10月25日にレコードデビューをした、「ザ・ブルーインパルス」のデビュー曲、『太陽の剣』と、1969年3月5日にリリースされた『メランコリー東京』をUPします。デビューから約5ヶ月後に出した「メランコリー東京」は、G・S衰退期に殆どのグループの曲が移行したムード歌謡路線です。グループ名の由来は、東京オリンピックで有名になった、航空自衛隊のアクロバット飛行チーム「ブルーインパルス」から取っています。

1966年~1969年にかけて、200グループ以上あったと云われるG・Sブームの頃に、レコードデビューはしたものの鳴かず飛ばずだったグループの曲を、カルトやガレージ・バンドとしてまとめたCDが発売されたのが、G・S元年と云われた平成元年でした。このガレージもののレコードは、逆に高額のプレミアが付いて、当時330円~370円のシングル盤が、一万円前後で売られていた頃があったのです。


銀河のロマンス [G・S]

ここ数日の北海道は最低気温が10℃以下に下がる日が多くなり、急に寒くなったので冬物のウールのセーターを出して着ています。天気予報によると明朝は霜が降りるようで、山間では9日に初雪が降りました。

上空の空気が澄んで、北国の星空がきれいです。ウォッチングを楽しみながら、大好きな辛口の白ワインか、スパークリング・ワインを愉しんでいます。本当はピンクシャンパンを好みますが、ドンペリニヨンなどは高価なのでバース・デイやクリスマス・イヴなど、何か特別な日に開けようと待機させています。(笑い)友人を招いて飲む事が好きな私にとっては、趣向を凝らしたつまみ、オードブルを作る過程も愉しみのひとつなのです。

ピンクシャンパンというと、私が大好きなアメリカ映画、ケイリー・グラント&デボラ・カーの『めぐり逢い』で、ニューヨーク航路の豪華船「コンスティテュウション号」のBARで二人が注文していた飲み物でした。音楽ではビリー・ジョエルのアルバム、『ニューヨーク52番街』に収録されている「ビッグ・ショット」に、ドンペリのピンクシャンパンが出てきます。

早くもクリスマス商戦がスタートしていまして、私が好きなネコをモチーフにしているワインボトルを見つけました。

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『黒猫が座った樽がもっともワインの出来がいい!』とされる、ドイツ、ツェル村の伝説から誕生した500mlの少し小ぶりの白ワイン、「ツェラー・シュワルツ・カッツ」です。レッドボトルもありますので置物にしても可愛いですよね。

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銀河のロマンス』 『花の首飾り

北国の星空から連想した『銀河のロマンス』です。私が中学2年になる少し前の1968年3月にリリースされ、両面共に大ヒットした曲で、『花の首飾り』は1980年にベイ・シティ・ローラーズのリードボーカル、レスリー・マッコーエンが最初にカヴァーして、1994年に葉月里緒菜、2001年に井上陽水、2006年には河村隆一、2007年にはリュ・シウォン、2008年に仲村瑠璃亜。多くのアーティストによりカヴァーされている名曲です。


遠い渚 [G・S]

あと僅かで8月も終わりですが、このひと月はそれまでとは違いゆったりと過ぎました。私の人生と日々の暮らしの中に音楽は切り離せないので、海と夏の終わりにふさわしい想い出の曲をUPします。

「遠い渚」は1966年の12月1日に発売された、シャープ・ホークスの2枚目のシングルで、この曲が好きだった私は中学1年の頃に、「♪ふたりで砂に書いた愛の言葉~冷たく波が消してゆく~」と、よく口ずさんでいました。

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遠い渚

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シーサイド・バウンド』「シャボン玉ホリデー」の映像です。


ヤング720 [G・S]

昭和40年代に私が好きだったテレビ番組に、TBSの『ヤング720』がありました。昭和41年10月31日~48年4月3日迄続いた人気番組で、竹脇無我さんと大原麗子さんが司会をやっていた頃もありました。

私が観ていた時期はG・Sブームの昭和42年から43年頃迄で、42年にベンチャーズが来日出演した日の司会は、デビューしたばかりのジュディ・オングでした。曲目紹介をするときの流暢な英語の発音をカッコよく思い、動機はどうであれ英語の勉強に集中し始めたのがこの頃でしたねえ。放送は登校時間帯でしたので、G・Sの生演奏を毎朝観る事は出来ませんでした。

昭和42年8月1日~31日の『ヤング720』出演者リストです。夏休みでしたので、毎朝観ていたのではないかと記憶しています。この頃はG・Sオン・パレードで、18日(金)はゴールデン・カップスが出演していますが、私は当時ドラムに夢中で、寡黙な雰囲気でドラムをたたいていたサベージの渡辺純一や、ゴールデン・カップスのマモル・マヌーが好きでした。

私もとても寡黙な人間なので、寡黙な人が好きなのですが、私が寡黙なのは火、木なんです!

8月
01日(火)ヴィレッジ・シンガーズ  
02日(水)東京ぼん太  
03日(木)東京ベンチャーズ  
04日(金)サベージ/引田天功
05日(土)シャープ・ホークス  
06日(日)    
07日(月)中川三郎/松山省二
08日(火)ビーバーズ/奥村チヨ/ジローズ
09日(水)尾藤イサオ&バロン  
10日(木)シャープ・ファイブ/沢知美
11日(金)B&Bセブン/伊東きよ子
12日(土)パラダイ・スキング/槙みちる
13日(日)    
14日(月)グレイバートレット  
15日(火)ヴィレッジ・シンガーズ/梶光夫
16日(水)スウィング・ウエスト  
17日(木)ワイルド・ワンズ/久保浩
18日(金)ゴールデン・カップス/望月浩
19日(土)アウト・キャスト/吉村実子
20日(日)    
21日(月)ベンチャーズ/マイク真木
22日(火)ベンチャーズ/阿木譲
23日(水)ベンチャーズ/山本リンダ
24日(木)ベンチャーズ/タイガース
25日(金)ベンチャーズ/永井秀和
26日(土)ベンチャーズ/青山和子
27日(日)    
28日(月)ブルー・コメッツ/マイクス
29日(火)ヴィレッジ・シンガーズ  
30日(水)パラダイス・キング/愛田健二
31日(木)491(フォーナインエース)/出手せつ子

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後に発売されたLP、CDバージョンの「いとしのジザベル」にはストリングスが入りますが、この音源はデビュー・シングルのものです。B面の「陽はまた昇る」は、ルイズ・ルイス加部のベースと、マモル・マヌーのドラムで始まるイントロが渋いですよ!

いとしのジザベル』『陽はまた昇る


渚に消えた恋 [G・S]

大通り公園の西2丁目会場で、8月14日(金)から20日(木)迄、盆踊りが開催されています。気が付くと日暮れが早くなり、北国の短い夏の終わりには一抹の寂しさがあります。暮れそうで暮れない春の黄昏時が好きな私ですが、これからのシーズンに相応しい曲としては、「♪二人の愛は~夏の日の夢」シャープ・ホークスの『遠い渚』。「♪一人ぼっちの砂浜に~真夏の夢を想い出す」アウト・キャストの『一日だけの恋』。トワ・エ・モワの『誰もいない海』。など‥がありますが、サベージの1967年6月1日にリリースされた『渚に消えた恋』が特に好きでした。

1967年10月5日にリリースされた、ラスト・シングルである『哀愁の湖』でサベージは解散しましたが、ドラムスの渡辺純一さんが若くして他界された事が解散理由のひとつでもありました。

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友人に銀座並木通りでクラブを経営していた女性がいて、閑古鳥が鳴いていたバブル崩壊後も銀座で頑張っていたのですが、7年ほど前に店を閉めて現在は実家がある都内に戸建てを買い、3階建ての1階部分に居酒屋風スナックを開いています。彼女は男性からの資金援助を一切受ける事なく、店の権利なども所有するオーナーママでしたが、このような女性によくある男運が悪かったのか、仕事もしないで暴力をふるうグウタラ亭主と離婚して、ひとり息子を女手ひとつで育て上げた人です。

一般的に男女の友情はあり得ないと言われますが、これが私達は続いているんですねえ。因みに彼女は1歳上の巳年(縁があるなあ!巳年に)の早生まれですが、間違って私が手でも握ろうものなら、「何か悪いもんでも喰ったんじゃないの!」とでも云われそうな、男気の強い女性です。彼女は高校卒業後、銀座でOLをやっていたのですが、夜の銀座に転職して初めて勤めたクラブは、石原裕次郎などの映画にも出演していた往年の俳優がオーナーの店で、その頃の先輩ホステスと昔お付き合いがあったのが、サベージの渡辺純一さんだったそうです。渡辺さんが19歳か20歳くらいの頃でしょうね。サベージの続きにたどり着くまでの、前置きが長くなりました。

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渚に消えた恋

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哀愁の湖』 (音源はタイトルをクリックしてお聴きください)


北国の夏は短かくて・・・ [G・S]

先日、吉永小百合さんがD・JをやっているTBSラジオの、「今晩は 吉永小百合です」という番組を聴きました。日曜日の夜10:30~11:00ですので、サユリストの方は是非お聴きください。(もう聴いている?)その日はG・S特集をやっていて、吉永さんも当時、タイガースやテンプターズを聴いていた事を嬉しく思いました。

 

G・Sブームの頃に、北海道出身のバンドがありました。全国区に進出する事はなかったので、ご存じない方が多いと思いますが、札幌の放送局を中心に活動をして、地元ではかなりのファンもいたそうです。私は父の仕事の関係でも北海道に縁があって、幼少の頃の友人がG・SブームのS43年に送ってくれたレコードが、「ザ・サマーズ」というグループのデビュー曲『たった一言』でした。3年前の夏に、この曲の想い出をブログに書いた事が縁になって、福岡在住のSさんとネットで知り合い、3年前の12月にお互いに仕事で行った、冬枯れの札幌でお会いしました。初対面とは思えないほど会話が弾み、知り合って3年が過ぎた今も友好を深めております。

Sさんも東京出身ですが、S46年からS49年まで、HBC北海道放送局のアナウンサーをやっていて、ラジオの深夜番組を持つD・Jでもありました。昨年の暮れに当時の番組内容を収録した、CDを数枚送って頂いて、正月にじっくりと聴かせて頂きました。彼も私と同じく、北海道を第二の故郷のように思っています。

ソネブロでは、「アイビー・リーグ」、「エンブレム」の検索ワードにヒットして、”ハゲアメリカーノ”さんと、やはり3年前の夏に知り合っています。未だにアイビー・ルックをこよなく愛する!Oyaji達のサークル、「AMERICAN・TRAD・CLUB」の皆さんとも知り合い、インターネットが無かった時代には考えられないような、人とのコミュニケーションが全国区に広がっています。

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たった一言』の音源です。

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はまなすの恋』の音源です。

当時、Sさんが一緒に仕事をしたグループに「ザキッパーズ」がいて、デビュー曲の『風のふるさと』はHBC深夜番組「ヤング26時」のテーマ曲として、S44年6月30日から2年間使用されました。北海道のブルー・コメッツと云われたキッパーズは、すすき野のオールディーズ・ライブハウス「THE・KIPPERS」を中心に、オールディーズなどを演奏し、唯一解散を経験していないG・Sとして活躍中です。

サマーズ、キッパーズ、北海道のG・Sもうひとつは、「デビィーズ」の『エルムの恋』です。北国の短い夏を、淡い恋にからませた歌詞が叙情的です。

♪北国の夏は なぜか短くて

駆け足で過ぎる 胸を痛ませ

だけども きっとこの恋は

実らせようね 二人して♪

この曲の間奏部分に、夕陽が美しい羊が丘展望台の映像がかぶるのですが、何故かこのシーンで涙腺が緩みます。(笑い)

エルムの恋』の音源です。


バラ色の雲 [G・S]

21日から札幌夏祭りが始まり、大通り公園はビールメーカー各社がビアガーデンを連ねています。北海道は梅雨がないと言われていますが、今月に入って曇天、雨天の日が続いていますので、梅雨前線が北海道まで張り出さないというだけで、やはり6月7月は雨が多いのでしょうか。夏の夕暮れ時に、夕陽が空を染めるバラ色の雲が好きです。

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音源はこちら

左から小松久:リードギター 小池哲夫:キーボード 林ゆたか:ドラムス 笹井一臣:ベースギター 清水道夫:ギター、ボーカル。キーボードの小池哲夫さんは現在、日本広告音楽制作者連盟の副理事です。       

ヴィレッジ・シンガーズの曲としては、「亜麻色の髪の乙女」がポピュラーになっていますが、私は中学1年の時によく聴いていた「バラ色の雲」が好きでした。

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ヴィレッジ・シンガーズは1966年に「暗い砂浜」でデビューしていましたが、リリースした2枚のシングルが不調に終わった為、成城大学軽音楽部の清水道夫、成蹊大学の小池哲夫、明治大学卒業の笹井一臣の3人を加えた新メンバーで再スタートし、1967年8月1日にCBSコロムビアから3枚目のシングル、「バラ色の雲」を出して大ヒットとなりました。

「バラ色の雲」はサベージのアルバム・バージョンもあって、バラード調にアレンジされたフォービートを、低音ボイスの奥島吉雄が歌っています。

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サベージ、ワイルド・ワンズ、ヴィレッジ・シンガーズ、カレッジ・フォークの「ブロード・サイドフォー」は、当時大流行したIVYルックでした。


46年ぶりの皆既日食 [G・S]

昨日は皆既日食を見た方が多いと思いますが、札幌はあいにくの雨模様でした。46年ぶりの皆既日食というと昭和38年で、私は小学3年生でしたが、学校で小さな硝子をろうそくのススで黒くするなどして、太陽を見ていた記憶があります。(この方法は目に良くありません)

 

子供時代に過ぎる年月はとても長く感じたものですが、成人を過ぎて、特に40代の辺りから月日の流れをとても早く感じるようになりました。これは加齢によって新陳代謝が低下して、身体が感じている体内時計の進み具合が遅くなるので、実際の時間の流れの方が早く感じるようになるのだそうです。逆に、子供の頃は新陳代謝が良い分、体内時計も早く進んでしまうので実際の時間が遅く感じ、「早く大人になりたいなあ」などと思ったりするのですね。

なので、身体の新陳代謝を活発にするような生活のリズムに変えて、運動、食事などをすれば体内時計の進み具合も安定して、若返りを図る事が出来るのではないでしょうか!?では早速、明日から早寝早起きをして実践してみようかしら。

 

時がゆったりと流れていた昭和42年の暮れに、当時多かったG・Sのテレビ番組で観た「ザ・ダイナマイツ」の曲です。

 

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恋はもうたくさん」はこちら

トンネル天国」はこちら

 

1967年11月に「トンネル天国」でデビューしたザ・ダイナマイツは、杉並区阿佐ヶ谷の少年達がモンスターズというグループで、主に米軍キャンプやジャズ喫茶を中心に活動していましたが、ローリング・ストーンズなどのナンバーを得意とするビートが利いたサウンドで、米兵の固定ファンを獲得するほどの人気グループでした。B面の「恋はもうたくさん」は、「G・S ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」に収録されている曲です。


Yesterday's Yesterday [G・S]

学生さん達は夏休みに入ったようですね。北海道の小、中、高生の夏休みはスタートが少し遅く、2学期が始まるのは逆に少し早いのだそうです。その代わり冬休みが長いのが雪国の特徴です。アメリカの学校はというと、夏休みが毎年メモリアル・デイ(今年は5/25)から、レイバー・デイ(今年は9/7)迄で、夏休みがとても長いのだそうです。

私の学生生活最後の夏休みをエンジョイしていた'76年は、日本の'60年代シーンを飾った若大将シリーズが新宿東宝で、5本立て100円で上映されたり、加山雄三のベスト・ニューアルバムが発売された年でした。このレコードをカセット・テープに録音して、車の中でよく流していました。

海が大好きな加山さんの、人生という航海に嵐が吹き荒れた時期があり、芸能活動も停滞気味だった頃に再ブームが到来して、デビュー15周年の武道館コンサートがあったのも'76年でした。このコンサートに私も行きましたが、加山雄三が名付けの親でもあるザ・ワイルド・ワンズがゲスト出演をして、想い出の渚が出来るまでのエピソードや茅ヶ崎の話などを披露しました。

'60年代のもうひとつのブームだった、グループ・サウンズの曲をカバーしたアルバム、「G・Sダウン・タウン・ブギウギ・バンド」が発売されたのも'76年でした。G・Sブームから僅か8年しか経っていませんでしたが、このLPをとても懐かしい気分で聴き入ったものです。

ダウン・タウン・ブギウギ・バンドのアルバムのなかでは、最も異色の作品でしたが、作詞:阿木燿子/作曲:宇崎竜童によるアルバム・オリジナル作品の「Yesterday 's Yesterday」を除いて、すべてGS全盛期にヒットした曲をカバーしています。宇崎竜童がダウン・タウン・ブギウギ・バンドを結成する前にGSのマネージャーをやっていたことがあって、その関係者との親交から思い入れがかなりあったようです。当時、通常のコンサートではGSの曲を演奏することはありませんでした。

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「Yesterday 's Yesterday」より

「歌に命がある そう思いはじめたのは 幾つの年からだろうか あり余る若さを この両の手に持て余し ぎらぎらと輝く灼熱の太陽に向かって 突っ走っていたあの頃か」

「歌に時がある 晩秋の夕暮れ プラタナスの木から枯葉が落ちるように 青春が一枚一枚そのベールを剥がしてゆく そして最後に残るものは 諦めきれない落ち着きと 剥き出しの裸の心か」


涙のあとに微笑を [G・S]

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G・Sブームの頃、スパイダース、タイガース、ジャガーズ、ヴィレッジ・シンガーズ等の主演映画が制作されました。当時のファン層は中学生、高校生、大学生から社会人までと、幅広い年代層で、活動としてはTV、ラジオ、雑誌などのメディアへの出演。日劇やジャズ喫茶、各種のイベントなどのライヴ。全国コンサートに映画出演もこなし、当時は現代のようなスピード社会ではなかったので、全国への移動だけでも大変だったと思います。

G・Sのメンバーの年齢は、ほとんどが17歳から19歳が多く、今のアイドル・グループとは全くスケールが違っていたように思います。因みにタイガースのドラマーだった「瞳みのる」は、'71年の解散後に全く別の方向へ進みましたが、慶応大を経て塾高(慶応高校)の国語教師をやっていました。中国の歴史、文学も研究していましたが、年齢的に昨年退職していると思います。私の友人の奥さんと大学が一緒でしたので、学生時代のエピソードを聞いていましたが、やはりタイガース時代の話は禁句だったようです。

1969年3月に上映されたザ・テンプターズ主演映画のタイトル曲、「涙のあとに微笑を」のライヴ版です。余談ですが私の元妻はテンプターズのファンで、友人達と横断幕を作ってコンサートに行っていたそうでした。因みに湘南出身で、ひとつ年上の姉さん女房でしたが、その後の再婚話の女性も何故かひとつ上の人達だったので、巳年に縁があったようです。


青空のある限り [G・S]

七夕のブログに六本木のライヴ・ハウスの事を書きましたが、ワイル・ドワンズの加瀬邦彦が経営する「ケネディ・ハウス」は、当時、飯倉交差点近くの下条ビルにありました。京都、福岡にも出していましたが、現在はコリドー街にある銀座店のみとなり、銀座店は'60年代に流行したゴーゴー喫茶(古っ!)、「メイツ」があった場所です。

ケネディ・ハウス銀座は60'sの洋楽中心で、六本木はG・S(グループ・サウンズ)のヒット曲をやっていました。客層は私と同世代から4,5歳上のビジネス・マンが多く、G・Sブームが終わって以来、十数年振りの生演奏でしたので、皆さん10代の頃の想い出が蘇えり、懐かしさで店の熱気は'60年代に戻った様でした。

渡辺茂樹を除いたワイルド・ワンズ4人が出演したときに、ケネディ・ハウスのステージ前に横一列に並び、みなさん同じステップを踏んでいたところ、曲が終わった後でワイルドワンズの植田芳暁から、「当店はダンスホールではないので、踊りたい方はご自分のテーブル付近でお願いします。」と注意を受けた程、私達を含めたみなさんがノリノリでした。

今は「ケントス」などでは踊れますが、ハウス・バンドのレパートリーが違うので、60'sの和製POPSやG・Sをメドレーで聴ける、横浜十日市場の「OCEAN」へ行ってみようと思います。時々出演するエディ田中&バック・ビートのボーカル、大村梨花さんは3年前にネットで知り合った方ですが、私は東京を離れての仕事が多いので、なかなか伺う事が出来ないでいました。

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1966年秋に「想い出の渚」でデビューした頃は、私は小学6年生でしたのであまり覚えていませんが、翌'67年の「夕陽と共に」、「青空のある限り」辺りからファンになりました。ワイルド・ワンズのファン・クラブは、お嬢様学校の東京女学館や、東洋英和などが多かったそうです。


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